靖国神社への今上陛下の御親拝の実現

靖国神社の英霊に

【靖国神社への今上陛下の御親拝の実現!!】
~45年も御親拝を賜われていないのは、英霊に対して非礼~

早いもので、令和の御代になって今日で1年が経過しました。

即位の礼等の皇室関係の行事が無事に終わった後での武漢肺炎騒ぎで、本当に良かったと胸を撫で下ろしています。(1年前だったら大変でした。)

最近は、禁足令中なので自宅で日頃できないことをしています。

また1ケ月間非常事態が延長されたため、5月24日「靖国神社」での義烈空挺隊の慰霊と顕彰の集いを延期することで再度準備を始めています。

そんな中、ふと靖国神社の御親拝について気になり、少し調べてみました。
最後の御親拝となったのは、昭和50年11月21日の秋季大祭時に昭和天皇の御親拝を賜ったのが最後となっています。

平成の御代には一度も御親拝を賜る機会が無かったのは国民として残念でなりません。

昭和50年から45年間もの間、御親拝を賜われなかったことは、大東亜戦争はじめ国の為に戦い散華された英霊に対して大変申し訳ない状態が継続しています。
いろんな経緯があってこの異常状態が続いていますが、昭和天皇は次のような御製を遺されています。(昭和61年8月15日に詠まれています。)

この年の この日にもまた 靖國の
みやしろのことに うれひはふかし

昭和天皇が御親拝をされなくなったのは、所謂A級戦犯の殉国七士が靖国神社に合祀されたからだと伝えられていますが、以降も毎年春秋の例大祭には天皇の代理として、勅使が参向しています。

昭和天皇のお気持ちは、御親拝継続であった事は容易に推測されます。

誰かが恣意的に所謂A級戦犯合祀を不愉快説をでっち上げたように思われます。
(この御製が、間違いなく昭和天皇お気持ちを表していると思います。)

それまで、靖国神社御親拝が問題にされることは無かったのに、昭和50年8月15日

に三木元首相が靖国神社参拝した時に、社会党等の野党からの質問に対して「私人参拝」と公言したことから問題視され始めています。

三木首相の自分を守る為の、軽はずみな発言から?國問題をつくり上げられたのです。

国の英霊を祀る靖国神社に参拝する首相は、公人として参拝するべきなのです。

愛国心など欠片もない情けない政治家が三木武夫元首相です。
その後、昭和53年10月に所謂A級戦犯の合祀が行われ、太平正芳元首相は参拝されたそうです。

その次が大変情けない首相が誕生しています。

中曽根元総理は、防衛庁長官まで経験し、戦時中は海軍中尉として従軍した経験者でありながら、中国からの抗議を受けて簡単に参拝を中止しました。(昭和61年8月)あり得ない話であり、戦友を蔑ろにした愚かな政治家です。

時系列で見れば、昭和53年のA級戦犯合祀の8年後の中国の抗議に屈服した情けない首相である。(以降、たびたび、中国からの抗議に屈服するのが当たり前になりました。)

三木、中曽根両亮首相がそれこそ?國神社の英霊に対する超A級戦犯となります。

安倍首相も第一次安倍内閣時にはは参拝したものの、第二次安倍内閣では実行されず、準A級戦犯となっています。

今上陛下、上皇陛下の御親拝の道筋をつくるためにも、安倍首相には今年の8月15日には靖国神社参拝を復活しても貰いたいものです
(武漢肺炎で中国は自国問題に四苦八苦している状況であり、復活のチャンスでもあります。)

【「空の神兵」顕彰会 会長・奥本 康大先生の投稿から頂きました。】

ハーバート・ノーマン

英国MI5(情報局保安部)が共産主義者と断定していたカナダの外交官、ハーバート・ノーマンは、GHQ(連合国軍総司令部)で日本の占領政策に関わり、有数の日本専門家としての発言力を背景にマルクス主義色の濃い「民主化」を進めた。(編集委員 岡部伸)

◇ GHQ対敵諜報部調査分析課長として、ノーマンが以前勤務していた日本に戻ってきたのは1945(昭和20)年9月。
ハーバード大時代に親交があった都留重人(後の一橋大学長)と、マルクス主義の憲法学者、鈴木安蔵を訪ね、「今こそ日本の民主化のために憲法改正を実践に移す好機だ」と憲法草案作成を働きかけた。

◇ 治安維持法適用第1号の京都学連事件で検挙された鈴木は、ノーマンの助言を受け、天皇制廃止を主張していた元東大教授の高野岩三郎と憲法研究会を結成。
同年12月26日に政府の改正草案より1カ月早く憲法草案要綱を発表。
この草案を参考にGHQが最終草案を作った。

その過程で、ノーマンは「君たちの憲法草案も(天皇制を廃した)共和制ではないが、どういうわけだ」と質問。
鈴木が「今の状態で国民的合意を得ることがむずかしい」と答えたところ、ノーマンは「今こそチャンスなのに、またしても天皇が存在する改革案なのか」と反論したという。

日本人の自発意思により作成した「民主的」とされる憲法草案も、ノーマンの工作で生まれたものだったということになる。
ノーマンが重視したのは、1条の「天皇は、日本国の象徴であり(中略)この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」の部分で、「国民の総意」を口実に天皇制を廃止できるようにしたといわれる。

◇また同年10月5日、府中刑務所を訪問し、志賀義雄と徳田球一ら共産党の政治犯にGHQ指令での釈放を伝えた。
そして同7日と9日、志賀と徳田らを尋問し、占領軍に反対する人名と背景を聞き出した。
彼らの情報を占領政策に利用しようとしたという。

民政局(GS)次長のケーディスが中心となって実施した公職追放でもノーマンが右腕として関わる。
同年10月4日の指令で、内務大臣、警察幹部、特高警察の罷免を指示。
さらに政治家、官吏、教員から地方政界、財界、言論界まで20万人以上の日本人を公職から追放。
対象者の人選はケーディスが核となり、ノーマンが協力したといわれる。
追放によって、教育界や言論界で共産主義シンパや左派伸長の遠因となった。

さらにノーマンは、「戦犯容疑者」の調査を担当。GHQから委託されて近衛文麿と木戸幸一をA級戦犯に指名し、起訴するために意見書をまとめた。

ノーマンは木戸と姻戚関係にあった都留から情報を得て、同年11月5日と8日に「戦争責任に関する覚書」を作成してGHQに提出するが、「彼が戦争犯罪人にあたるとの強い印象をもった」と近衛への筆鋒(ひっぽう)は鋭かった。
同年10月にマッカーサーから新憲法起草を指示され、戦犯指名されないとみられていた近衛に「A級戦犯」として逮捕令状が出されたのは12月6日。近衛は出頭期日の12月16日に命を絶った。
ノーマンが近衛を戦犯指名するよう工作したといわれる。

◇また、ノーマンがハーバード大学の博士論文として執筆した著書「日本における近代国家の成立」は、GHQが日本理解のバイブルとして利用したとされる。
戦前の日本を人民の生活と諸権利を犠牲にし、封建的要素を濃く残した、いびつな近代社会と指弾するものだった。
日本共産党の講座派マルクス主義理論に依拠する歴史観は、制裁的な占領政策を推進するニューディーラー(ルーズベルト大統領のニューディール政策支持者)たちに大きな影響を与え、戦後の日本に自虐史観を根付かせる要因となった。