
●正論編集部の「つくる会」批判に反論する(5 最終回)
●「従軍慰安婦」の復活も弁護
正論編集部論文の第三の問題点は、今次検定におけるもう一つの大問題だった中学校歴史教科書における「従軍慰安婦」記述の復活まで正当化するに至ったことだ。
【「つくる会」の教科書が不合格となり一度消えた「従軍慰安婦」が”復活”した。
教科書の正常化が振り出しに戻った格好にみえる。
「検定がおかしくなった」と感じた読者も多かろう。】
こう書いたうえで、正論編集部はこのことを分析し糾弾するのではなく、文科官僚の肩を持って、検定は不当ではないことを熱心に弁護するのである。
その言い分の筋道はこうだ。
まず、(1)二○一四年度から施行された「検定基準」に、「閣議決定その他の方法で示された政府の統一的な見解」がある場合は「それらに基づいた記述がされていること」という事項を挙げる。
次に、(2)「河野談話」に言及し、【閣議決定された文書ではないが、政府の統一見解といえるもの】であると評価する。
そこで、(3)「いわゆる従軍慰安婦」という表現について、(1)を根拠に【意見を付すことは難しいのである】と結論づける。
だが、正論編集部は他方で【河野談話で述べられている様々な表現はその後の政府の検証調査などで事実上否定されてはいるのだが、「河野談話」自体は今も取り消されたわけではない】とも書いている。
これは順序が逆で、「『河野談話』自体は取り消されてはいないのだが、そこで述べられている様々な表現はその後の政府の検証調査などで事実上否定されている」と書き、だからノーマークで通したのは不当である、という論陣を張るべきなのである。
あるいは、二○一六年一月、中山恭子議員の質問に答えて、「強制連行」「性奴隷」「二十万人」のいずれも証明する根拠がない、と述べた安倍総理の答弁を引き合いに出すべきなのである。
正論編集部は文科官僚の丹念なレクチャーを受けたのかも知れないが、その筆致には、虚偽を歴史の教科書に載せることへの、一片の怒りも感じられない。
「正論」を舞台に、いかに多くの研究者、言論人、ジャーナリストが、今まで「従軍慰安婦」という世紀の嘘について心血を注いで書き継いできたことか。
正論編集部論文は、「正論」誌のその輝かしい伝統と足跡に泥を塗るものである。
●重大岐路に立つ雑誌「正論」
これまで雑誌「正論」はその名前のごとく、わが国を正しい方向に導くべく、その指針となる多くの論文を掲載してきた。
「つくる会」の教科書改善運動に対しても大きなご理解をいただき、ともに闘ってきた戦友とも言える発信媒体だった。
それだけに、背後から撃たれたような「つくる会」批判には驚きを禁じ得ない。極めて残念である。
「つくる会」の教科書に日本の未来の希望を託してきた多くの読者は激しく失望し、筆者の身の回りでも「正論」ではなく「愚論」になったから購読をやめると語っている人が多数いる。
理念を失った言論雑誌は、存立の基盤を欠いた抜け殻である。
産経新聞の社論にも傷をつける。
執筆者の個人責任を明示せず、「正論編集部」という集団・組織に逃げ込む姿勢も卑怯である。
「文科省批判と再検定要求の前に」というタイトルは思わせぶりで何を言わんとするのか不明だ。
主張の核心を明示することができない。
「つくる会」は反省して、とっとと消えろと言うのだろうか。
本文もソツがないように見えて、「イエスーバット」文体を氾濫させ、右顧左眄する。
「読んでいてムカムカする」「いやらしい」といった感想が寄せられている。
こういう文章を私は「裏切り者文体」と呼んでいる。
心にやましいところがあるのである。
だが、五月九日の産経新聞に掲載された六月号の半五段広告を見て、「おやっ」と思った。
正論編集部論文のタイトルが広告の中から抜けているのである。
正論編集部はこの論文の誤りに気付いた可能性がある。
そうであるなら、「誤りを正すにはばかること勿れ」である。
正論編集部が真摯に反省し、謝罪文を公表するなら、何かの間違いとして不問に付す用意がある。
私個人は、今まで「正論」を心の支えとし、「正論」に育てられたという思いがある。
決して「正論」誌の消滅など望んではいない。
論文は「つくる会」が「重大岐路」に立たされていると上から目線で結んでいるが、「重大岐路」に立たされているのは、雑誌「正論」のほうである。(終わり)
【新しい歴史教科書をつくる会・藤岡 信勝 副会長の投稿から頂きました。】


