日教組の正体

大東亜戦争(太平洋戦争)敗戦後、連合国軍最高司令部は日本の民主化という名目のもとに様々な政策を実施する。

明治憲法の抹消、修身や教育勅語の廃止、東京裁判による日本罪悪史観の注入等がそれである。

日の丸・君が代の禁止もその中に含まれていた。

これらは、戦前の軍国主義を一掃するためというより、愛国心やモラルを剥奪することによって日本人を骨抜きにし、日本を弱体化させるためであった。

アメリカは、日本の参戦によって欧米列強がアジアに築いた植民地や権益を奪い取られたことを恨み、また蔑視の対象であった東洋の小国が大国アメリカを敵に回して果敢に戦ったことを恐れ、日本が二度と脅威とならないよう徹底的な「精神的武装解除」をおこなったのである。

更に、GHQは民主主義を啓蒙するために、社会主義者の活動を許し、教員の政治団体や組合結成を奨励した。

後にGHQはこれを後悔してアカ狩りに転じるのだが、まだ庇護の対象であった社会主義者はGHQの後ろ盾を得て、猛烈な勢いで情宣活動を開始する。

こうした動きの中で、日本教職員組合が結成される。

昭和27年に設けられた「教師の倫理綱領」には「教師は科学的真理に基づいて行動する」という項目があったが、この科学的真理とはマルクス主義を表していた。

日教組は創設当時から天皇制、日本政府打倒を掲げて、階級闘争的イデオロギーによる教育活動を目指していたのである。

******************************************

日教組が教科書検定への影響力が強く、中国と韓国と北朝鮮と在日が捏造した、日本を悪者扱いする出鱈目自虐史観しがそのまま教科書に載っているのが現状です。

正しい歴史認識を知りましょう。

これらの日教組は捏造した自虐史観を押し付け、公務員に禁止されているストライキ、選挙運動を行い、朝鮮人に日本を侵略させるための外国人参政権と人権委員会設置法案を推進しております。

もう一つは日本の歴史教科書検定は中韓などの近隣諸国に配慮した近隣諸国条項という物があり、中韓がOKしないと教科書検定に合格しないため中韓が捏造、歪曲した歴史教科書になってしまっています。

文部科学省においては、教科用図書検定基準の中に「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること。」という近隣諸国条項の追加が談話と連動して行われた。

中学、高校の教科書検定に日教組が影響力を持っており、韓国と中国が捏造した歴史がそのまま教科書に載っております。
出鱈目の教科書内容
在日の強制連行説 南京大虐殺 創氏改名の強要
外国人が公務員になれない、参政権がないのは差別

日本語を強要されたなど

広島の世羅高校の修学旅行の生徒に土下座させた時の写真
日教組は捏造された自虐史観に対しての韓国への土下座謝罪をさせました。

上の写真は、広島県立世羅高校が実施した韓国修学旅行での光景。
日教組の反日教員によって、独立運動記念公園で生徒に「日帝侵略と植民地蛮行を謝罪する文章」を朗読させ、さらに居並ぶ韓国人に向かって膝をつかせて謝罪させました。
また、世羅高校の校長は連日連夜、国旗掲揚・国歌斉唱の中止を求める日教組や部落解放同盟などとの交渉に追われ、心労から自殺してしまいました(産経新聞)
■校長を自殺に追い込む
日教組および部落解放同盟は、校長をたびたび自殺に追い込んでいます。

尾道市立高須小学校の校長が自殺
広島県立世羅高校の校長が自殺
三重県松坂商業高校の校長が自殺
広島県立三原養護学校の校長が自殺

広島 連発する校長自殺 日教組教師が原因

県教委の調査によると、教員組合が校長の権限を不当に制限し、自殺は学校運営に苦しんでの結果だった。
日常的かつ組織的な吊し上げが同校の組合員によって行われていた。
上記のように、日教組は自分たちのイデオロギー(反日・極左・共産主義・自虐史観)にそぐわない者には、自殺に追い込むくらいに圧力をかけます。
民間から起用された校長などは、まさに格好のターゲットです。
日教組による被害者は後を絶ちません。

**********************************************

サヨクの方々の「反戦」「平和」「人権」「環境」などの一見正しい言葉は日米同盟解体のためだった

日教組初代代表=羽仁五郎(マルクス主義歴史家、革新系参議院議員)

1945年12月の連合国軍最高司令官総司令部(SCAP)の指令に基づき、全教(全日本教員組合)・教全連(教員組合全国同盟)などの教員組合が発足。
日本国憲法の公布(1946年11月)/施行(1947年5月)・教育基本法制定(1947年3月)に呼応して、全教・教全連などが、1947(昭和22)年6月、日本国憲法/教育基本法の理念普及と、階級闘争を運動方針とする統一的な教員組合として日教組を結成。
マルクス主義歴史学者の羽仁五郎が代表に就任。 ⇒ 参考 GHQの占領政策と影響
「 階級闘争 」「 抵抗教育 」「 革命運動 」を実践し、 日本の国号と天皇・日の丸・君が代への反対運動 を行う。
学童/学生に「 平和教育 」を施し、 自虐史観 を刷り込む。

「広く全日本および全世界の労働者農民諸君と手をたずさえて我国に残存するあらゆる悪秩序と闘い、これを徹底的に打破して、豊かな民主主義教育・文化の建設に邁進することを厳粛に誓う」
(1947年、日教組結成大会での宣言)

「一人々々の組合員が 自らのプチブル的傾向を脱皮し教育界に温存されている封建的残滓を打破して階級的立場を明確にし、分会、地区、府県、地域、中央へと日常闘争を進める ことによって初めて日教組の組織は強化されるのである」(1949年、日教組第五回定期大会の運動方針)

「日本教職員組合の運動方針には『 教育労働者として階級的立場を明らかにして闘う 』と書いてありますが、われわれはそのように、日本の貧しい人々、つまり、労働者の側に立って、日本の横暴な資産階級のわがままと闘うのであります」(1953年、日教組のパンフレット『新しく教師となった人々に』)

日教組が発足する前年の1946年から約十年間は、過激な自虐贖罪教育が行われた時期で、この期間に学童/学生期間を過ごした者は、現在に至るも非常に偏った反日的思想傾向を持つとされる。

自社55年体制がスタートした、1955(昭和30)年頃から教育正常化運動が始まり、ようやく日教組の横暴に歯止めがかかったが、その影響力は現代に至るまで長く続いている。

日本文化及び日本人の若者を破壊し、共産主義を日本に浸透させる。

戦後、在日朝鮮人は、日本の諸政党の間を移動しながら、反日活動を展開してきた。
最初は日本共産党に所属し,日本国家の転覆、共産党政権(朝鮮人政権)の実現を目指した。

戦後史に詳しい方なら、戦後、日本共産党を再建したのは、在日本朝鮮人連盟であることをご存知のはず。
1945年から1953年までの8年間、日本共産党は在日朝鮮人が支配していました。

自称沖縄人の朝鮮人=徳田球一をリーダーとする日本共産党内の朝鮮人グループ、いわゆる『行動派』が、1950年から展開した軍事方針と称する武装闘争戦略は、朝鮮人による「日本国家乗っ取り運動」でした。
この戦略はけっきょく失敗し、日本共産党のイメージダウンを招いただけで終わりました。

宮本顕治をリーダーとする日本共産党内の日本人グループは、大反撃に出て、朝鮮人グループに握られていた共産党の指導権を取り返し、権力闘争に勝利しました。

すると、朝鮮人グループはあっさりと日本共産党と袂を分かち、全学連を結成して反国家活動=日本国家乗っ取り運動を続行しました。

同時に、日本共産党から日本社会党への「民族大移動」を敢行しました。
こうして、日本社会党内に誕生したのが「社会党・左派」です。
つまり、日本共産党・行動派と日本社会党・左派は、実は同じグループなのです。

単に看板を変えただけであり、その正体は暴力革命を目指す朝鮮人グループだったのです。
日本社会党および現在の社民党が、むかしから朝鮮総連と深い関係にあるのは、そういう裏事情があるためです。

これは重要な事実ですので、しっかりと頭に入れておかなければなりません。
革マル派、中核派、解放派、赤軍派、これらの組織は、全て朝鮮人の団体なのです。

民主党の旧社会党勢力が成り済まし在日朝鮮人であることを知っていますか?

ほとんどの在日朝鮮人が共産主義者であったことをソ連(ロシア)が利用し、米軍が駐留している日本を軍事的に侵略することは無理なので日本内部からの革命を企てた。

その為に、在日朝鮮人(徳田球一ら)を多く入党させた日本共産党にその革命を負わせた。

しかし。日本人の戦前の共産党アレルギーによりうまくいかず、ソ連(ロシア) は日本国民にうけの良かった社会党に乗り移ることしした。

日本共産党の成り済まし在日朝鮮人を社会党に移し松本浩一郎をモスクワに呼び「密命」を授けた。

その「密命」は 「何も武装闘争などする必要はない。
共産党が作った教科書で、社会主義革命を信奉する日教組の教師が、みっちり反日教育を施せば、三、四十年後にはその青少年が日本の支配者となり指導者となる。教育で共産革命は達成できる。

「青少年に対し祖国の前途に対する希望の灯を奪い、祖国蔑視、祖国呪詛等の精神を植え付けることが、革命への近道だ」
日本文化及び日本人の若者を破壊し、共産主義を日本に浸透させる。